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It’s LIQUID International Contest | First Edition 2012
- 2011/12/02 16:09
- News | Recommendations:現代美術コース
以下ユーロ圏へのデビューを考えている人はチャレンジしてみてください。
*It’s LIQUID Group*, in collaboration with *International ArtExpo*
(www.lucacurci.com/artexpo <http://www.lucacurci.com/artexpo>), is proud
to present*It’s LIQUID International Contest | First Edition 2012* open
to artists and designers from all over the world, without any limit of
age and nationality.
We are asking you to share our contest between your students, you could
post it on the notice board or distribute it in some other ways or
through other communication tools. Here below some information about our
group and the contest.
*It’s LIQUID* is a communication platform for contemporary art,
architecture and design (www.itsliquid.com). We offer the possibility of
sending press releases to over 60,000 qualified subscribers. Among them
architects, designers, collectors, art critics, curators, dealers, and
other personalities of the International art, architecture and design world.
*It’s LIQUID International Contest | First Edition 2012*is born with the
goal of promoting contemporary art, photography and design through all
the divulgating tools that our communication platform *It’s LIQUID* has
used for years (press release, mailing list with more than 60,000
subscribers, international contemporary art and design events
realization). Solo artists and designers can participate to the contest
as well as groups, after the designation of a group leader useful for
the registration. The contest, with a free theme, is divided into five
categories:
*painting and drawing | sculpture and installation | photography |
videoart | product design*
**
Each artist can take part with one or more works which belong to one or
more categories.
The official contest website is www.itsliquid.com/contest/2012
<http://www.itsliquid.com/contest/2012>
*Submission Deadline*: January 19, 2012
Winners Release: March 08, 2012
In attachment you will find the official press release that you could
post on the notice board or share by email to all students.
We are open to any possible collaboration, to meet your students and to
some other ideas and projects. If you have any questions, please do not
hesitate to contact us.
Best regards
Luca Curci
Director
*It’s LIQUID Group*
c/o Luca Curci Architects
Corso Vittorio Emanuele II, 33
70122 Bari (Italy)
+39.0805234018
+39.3387574098
info@itsliquid.com <mailto:info@itsliquid.com>
www.itsliquid.com <http://www.itsliquid.com/>
www.lucacurci.com/architecture <http://www.lucacurci.com/architecture>
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福島に向けて デンマークと岡本太郎
- 2011/10/16 10:26
- Blog:現代美術コース | Gallery:現代美術コース | News | Recommendations:現代美術コース
ラディオアクティブ プラントロン 銅金裕司
この展示では、植物を真ん中に配しその声をまわりのコンピューター(プラントロン)で聞けるようにしています。植物の微弱な電気変化を音に変換しています。
そして、展示している植物の周辺はわすかに放射能が帯びています。それは東京程度で安全なレベルです。ここでは、ほんの少しだけ放射能を帯びた環境を植物が感じて、その様子が音で表現されています。もちろん植物も放射能を感じているはずです。
いっぽう、致命的と言える福島第一原子力発電所の人災の後も、そのすぐ近くの植物はじっとだまってそこにいます。きっと彼らも声を発しているはずでしょう。
思うに、それはどのような叫びなのでしょうか?
私は、もしも、もう少し前に私たちが、福島第一原子力発電所周辺の植物の声が聞こえるくらい、植物やさまざまな生命を感じる感性さえあれば、よもや、原子力発電所なぞを建設することなどなかったのに、とほんとうに残念でなりません。
今回の人類最大の厄災の本質的解決が残っているとすれば、それは、このように、私たち自身の感性を変えてゆくしかないことだと、私は思います。
http://www.taromuseum.jp/exhibition/current.html
http://samtidskunst.dk/simpleinteractions/projects/yuji-dogane
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学生作品展。3回生。
- 2011/09/14 23:52
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いよいよ明日から学生作品展開催です。







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2年生友禅作品。
- 2011/08/30 13:54
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こんにちは、だいぶんとすごしやすくなりましたね。今日は2年生の友禅染めの作品を。







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三年生前期。
- 2011/08/03 23:10
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三年生前期。






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ART iT バックナンバーで震災支援を!!
- 2011/03/21 13:23
- News | Recommendations:ペインティング(修士課程) | Recommendations:写真コース | Recommendations:油画コース | Recommendations:現代美術コース | Recommendations:総合芸術コース | Recommendations:総合造形(修士課程)
『ART iT』では、この度、バックナンバーの販売を通じて東北地方太平洋沖地震で 被災された皆さまへの寄付活動を行います。 販売価格は全商品、定価の20%OFFとし、売り上げは全額、義援金として日本赤十 字社へ寄付させて頂きます。 なお大変申し訳ありませんが、送料はお客様ご負担とさせて頂ければ幸いです。 発送は3月22日より、宅配便が配送可能な地域へ順次行ってまいります。 皆さまのご支援とご理解の程、何卒、よろしくお願いいたします。 2011年3月19日 ART iT 編集部 http://store.art-it.jp/shop/artit/
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manuality/問題の答え/いま何をするべきか?学生は?教員、スタッフは?不謹慎かもしれないが、ぼくには絶好のチャンスに思える
- 2011/03/15 21:29
- Recommendations:現代美術コース
いま何をするべきか?学生は?教員、スタッフは?不謹慎かもしれないが、ぼくには絶好のチャンスに思える。教員であるぼくはこのときを待っていた。そう、圧倒的な知識を書物をもってみんなを啓蒙、普及できるからだ。先に言っておくと、どうしてこんなこと(原発事故!)になったかというと答えは簡単で、現代人が、あまりにも、イモだからにすぎない。感性が腐っているというか、根性が曲がっているというか。この感性のイモぶりが、こんな事態を引き起こした。科学と技術そのものは潔白だ。そう、それにかかわる現代のニンゲンの感性がバカバカしいくらい下劣なだけなのだ。
では、どんな感性になれば、いいのか?そいつは、さっきNEWSに書いておいたのでみてほしい。ぼくらは、手を動かしてモノをつくる、そんときの手にもう一つの手の感性を構築しつつ、すこしばかり頭脳を鍛えればいいだけだ。
とはいえ、ぼくが提示したmanuality というのには、はっきり言って、ものすごい背景がある。だから、簡単には伝えにくい。ぼくらのmanualityという感性の根源にかかわる議論には、参照すべき書物の山は瓜生山10個はあると思う(!?)。読破するのはほんとに大変だと思う。でも、ぼくは勉強しました。ぼくみたいな、便利な先生の存在価値もあるかもしれない。なにしろ、ぼくの専門は、むかし、海洋学だったわけでだけど、その海は、原発の炉に押し込んだ海水でもあったから。卒論にはそういう論文を書いた。ぼくの先生連中には鼻の先で笑われたけど、いま、ぼくの示した現実がホントになったから、当時、ぼくを笑った先生たちは、ぜったい、ぼくに合わせる顔はないはずだ。ここに大事な問題がある。そう、テレビで解説とかやっている連中は、御用学者ってことで、やっぱり、原発推進派で国の忠実な僕(しもべ)なのだ。怒られるけど。忠犬なんだよね。だから、ぼくみたいな、バリバリの本気の反原発論者は人間じゃないような扱いだった。そう、長い歴史に、このような、対立があります。それでも、ぼくは、反原発主義者にもかかわらず、現場を見るために、建設省で、自然破壊に汲みしてた時期もあるわけだけど、とうとう、それを止めたとたん、弱者の仲間になってしまいました。
いろいろ話したいけど、時間切れ。続きはまたにして、これ。
興味ある人は、勉強会が始まったので、
dougane@gmail.com に。
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福島原発事故を超えて Mar. 12 2011
- 20:42
- Blog:現代美術コース | News | Recommendations:現代美術コース
福島原発事故を超えて
アートからの提言、アートの責務について
私たちがもつべき緒力 “Manuality” 現代美術コース 銅金裕司
私には長く一緒に暮らしてきた愛すべき老齢なカナリア(Serinus canaria)がいる。彼は歌のマイスターで以前、私の展示作品でネット上で他の鳥たちの師匠方を勤めたことがある。K市で起こった天変地異の前だから、もう10年以上前に家にやって来たことになる。来た時は、雄雌のつがいだったのだが、あるとき、メスは卵が詰まって、カゴに頭をなんどもぶつけて死んでしまった。そして、彼は、やもめになってから、だんだんとぼくら人間たちを恐れなくなった。それから彼は、声をかけると小首を傾げたり、ランの花をしげしげ眺めたり、けっこうユーモラスな仕草をして、健やかで、おとなしく、穏やかな性格で、歳をとっても体の線はいつまでもなめらかで、夏の暑い日には水浴びをしたいと言い、冬の寒い日には早く日光浴は切り上げて暖かい室内にいれろとか、言い出したり、言ってるような気がした。もちろん、口を利くわけではないが、少なからず、彼の意図のおおよそは通じるものなのだ。いま流行の異種間コミュニケーションだ。そうこうしているうちに、なんとなく言わんとするところがわかるような気がして来て、つまりは、気心が知れたようで、およそ一緒にいるときは、互いに親しい友人といるような特別な時間が生まれて、幸福な喜ばしい気分を味わえるようになった。
これは、比喩、あるいは、ある喩えにすぎないが、こうして私が彼から遠く離れ異邦の地の別の遠い空の下にいても、なんとなく彼がすぐ傍にいるような気がして、ときに、彼の思いがむくむくと立ち起こって来る。もしかしたら、ぼくらは、死んだ後も一緒にいるかもしれない、などと思うとうれしくなるものだ。鳥に心があるとかいうと怒られそうな気がするが、断言してもいいが、歴然と彼には「心」はあるのだ。なんといわれようが。そして、その「心」は私の精神の支えにもなっている、と言ってもいいかも知れない。なぜなら、そこには確かな絆のような感覚を感じるから。そんな微妙にあるかないかの心、そのどこかでぼく自身と繋がっていることはすごく素敵なぼくの精神のおおもと、ほんとの基盤だ。家畜など動物と一緒に暮らすの方の中には同意いただけるような気もするが、こんな話を一笑に付する人もいよう。とはいえ、それで、彼に癒してもらっているなどとは私には言えない。そのうち、私は彼を殺してしまうに決まっているからだ。だが、そんなことも、我々にとっては、気にすることでもない。互いに殺し合うこともあるものだろう、くらいは思っている。
年齢を重ねるとともに、その彼の足に問題が生じてくる。老齢化して、年ごとにだんだん、足そのもの、全体が朽ちて溶けてゆくのだ。まるで、体の中に足が没入してゆくようにも見える。その足にはもう指らしきものはなく、肉の塊の突起に爪が生えているといったところだ。しかし、いっぽう爪はどんどん伸びて、止まり木を一周するようにもなってゆき、一周廻って、自分のくるぶしを突き破りそうになったり、止まり木にうまく止まれなくなって、ついには足をすべらせて、床を這いまわったりするようになることもある。
伸びすぎる爪。野生ではこうなる前に死んでしまうのだろう。野生に人がかかわるから、このようなことが起こるのだ。この鳥はもう人の一部なのかも知れない。こうなると、私が伸びた爪を切ってやらないといけない。つまり、捕まえて、押さえつけて、足を突き出させて、繊細で鋭利な刃をもつ爪切りで、長くうねった爪を根元で切り落としてやらねばならない。
爪を切る日は、あたたかく晴れた日で早めにカゴごと戸外にだしてやる。すると早々と「はやく朝飯をよこせ」とか言う。彼をなだめつつ、しばらく庭に放置しておくことにする。すると、シンビジュームの葉などを啄んで遊び始める。このあいだに、部屋の窓を閉めたり、新聞紙を敷いたり、いくつかの用具をそろえたり、ラジオを消して静かにしておかなければならない。そして、もしも飛び立ち、逃げたときのことを考えて室内で爪切りは実行しないといけない。そして彼の朝食の前に、爪切りは済ましてしまいたい。爪を切ったあと、彼が元気に食事をしてくれるだけで、私には深い安堵、安心をもたらせてくれるからだ。
そこで、まずもって、彼を取り押さえなければならない。
カゴにすこしだけ手を入れる。その瞬間、いつもと違う私の手の動きに、一瞬にして身を返してあちこちと止まり木をジャンプしたりする。「それ以上、手を入れてくるのか?」というところであろう。そして、ぼくは、さらに、カゴの中に深く手を差し伸べてゆく。彼も追いつめられ、ただならぬ状況になったことを知る。尋常ならざる状況。当惑してバタバタ暴れたりもする。このときにはぼくは、両手を使う。両手でゆっくりと彼の捕獲をめざさねばならない。暴れるのをやめるまで両手は静止する。時間をかけて、そのままじっとすると、床の隅に飛びおりて、他人行儀な態度、というより、こっちを見て、非常事態にパニックになり怯えているようでもある。半分、口をあけて、激しく呼吸を始める。興奮している。口をパクパクしつつも、ピーピー鳴いたりして、小さな身体を縮こませている。
そして、おもむろに私の方を向いて、その時、じっくりと目を合わせる。彼は言う。「本気なのか」と。私も言う。「そういつものように、ごく本気だ。おだやかに」と。
私はゆっくりと、カゴの隅にいる彼を両手で、すべての指の力を抜いて、まるで、ぼくの両手がかつて翼であったような心持ちで、彼をゆっくり空気のように包み込んで抱きかかえる。そこには、大空を抱えるような気分がみなぎる。
それは、小さくて、なにより薄いセロハンのように軽く、羽はビロウドのようになめらかで、雪のようにほっそりとしていて、そのあまりの華奢さに、私の手の感触から伝わる彼の身体を想像しうる私の感性が、彼のこの世界での存在のあり方対して、もはや、追随してゆけなくなってしまうようでもある。言葉を変えると彼と私のあまりに単位体積当たりの重量が違いすぎるので、私の小さな指の震えでさえ彼にとって圧倒的な力となってしまうであろうことを痛感してしまう。いっぽう、このような儚い存在が空を飛び、時に大陸を渡りあるくものもあるのかと思うと深い圧倒的な感慨にも包まれる。
するとどうだろう。いったん私の両手に包み込まれると、彼はすっかり力を抜いて、自分からふわっと私の掌に被いかぶさり、ついに私に身体を預けてくる。そこでも、私たちは目をそらすことはない。目の光は奥の方で輝くだけである。
というところで、ようやくここからが本題である。
私は両手の力を抜くように、しかし、非常に弱い力を10本の手の指にみなぎらせて、彼を包み込むようにしている。はじめに、その状態から非常にゆっくりと手を開いてみることにする。するとなんと彼は、腹を天に向けて両足を中空に突き出して、ゴロリとしたままの状態でいる。ふいに開放されたことで、やや当惑した不安げな面持ちをしている。そして、今度は、私は、わずかに両手を閉じつつ、やさしく包むのではあるが、だんだんと少しずつ力を込めてゆくようにしてみるのである。
ほんの少しずつ、羽からシューシューごくゆっくりと空気が羽から抜けてゆくことがわかる。秩序正しく折り畳まれた少し湿った羽が小さく崩れつつあるのも感じられる。彼は、ふいに虚をつかれたようなきつい表情に変わり、爛れた足で、ぼくの両手を蹴ったりすることもある。目は合わせているが、強いて言えば、やや怒りのようなものを感じる。そして、そこでその私の両手の微細な力をゆるめず、さらに、握る力をだんだんとゆるりと強めてゆく。すると、次第に彼の枯れ枝のような翼の骨を感じることができるようになり、羽の先のほうのやわらかい脈がいくつか壊れつつあることも感じる。彼は、少し体をよじる。ぼくが本気かどうかを確かめるのに、じっとこっちを見る。「これ以上はやめろ」と彼は目でぼくに言う。ぼくははさらにほんの小さな力を両手に分散させてみるが、ついには、その先に彼の死があることが、はっきりわかる。彼の死までのはるかなる距離が容易に計れるようになって、その死が実現することが明瞭に悟ることができるようになる。かれもぼくもその死の前に陶然とうっとりとするムードに包まれる。
この両手のさまざまな向きの微細な緒力のあり方。
これこそが、この世界にとって重要な、人が持ちうる、持つべき感性であると思う。
このこの両手のさまざまな向きの微細な緒力のあり方を“Manuality”、マニュアリティと名づけたい。
とはいえ、人は多くの生命を殺戮する存在である。いとも簡単に自分たちの都合でさまざまな生き物を殺し、勝手に忘却している。こうすると、よく言われるような人の「心の癒し」などを世界に求めるべくもなく、精神の安寧なぞありようもないように思えてくる。たぶん、きっと自分たち自身も滅ぼす存在である。
いったい誰が癒されるべきなのか、とはよく考えたいところだ。いっぽう、人同士のコミュケーションの不全も新聞などで夙に聞くことだが、ここ最近の人の無軌道、破廉恥ぶりからすれば、もともと人間のコミュニケーション能力などないようにも私には思えてくる。
これほどに殺戮や自然の破壊、自滅的な戦争を繰り返す生き物もないのに、うわべだけの自然保護だの、自然との共生だの、絶滅危惧種のリスト作りだとか言っても、もはやどうしようもあるまい。環境、世界の破壊など日常茶飯なのに。
このように、私を含めて人は世界に死をもたらす存在である。この宿業をどう解消してゆけるか?はたして、これはあらゆる文化と宗教が人類発祥以降、自問自答してきた問題ではあるのだが。
そうは言っても、私は、一縷の望みはもってゆきたいと思う。かすかに私とカナリアとの間柄のような、卑近であまりに規模は小さいものの、生命が緊密に交感するといっていい瞬間、場合も存在するだろう。
私はこのような人の能力、感性、“Manuality”、マニュアリティを信じたい。
人間以外のいろんな生命、彼ら自身らがともに生きる上でも、非常な緊張感や人間からみると理不尽な戦いの顛末や異様な死の不安に包まれることも多い。私自身が生きるときに、細胞レベルでさえ、日一日と生まれては、もう死んでいるはずから、どんどんある部分は死んで行くのは仕方ないことだ。人はこのことを知って、生きて食べるだけさえも、結局、いろいろな生命を殺してしまうわけだが、それが世界のルールでもあるのだけれど、まずは、このルールをしっかり自覚しないといけないように思う。
スーパーやコンビニのパックの豚肉はいったい何なのか?
焼肉屋に群がる人々への獏たる胸騒ぎはどこから来るのか?
そのための効率と経済性を追求したビジネスモデルと精巧な殺戮機械。
ちょっとした快感と欲求が、一方、大衆的な無自覚な殺戮と過剰な死を招き、もうそのような、人にとって取るに足らない生き物が生きて死んでゆく世界への感性も萎えてしまっているような気がする。その感性の欠落は、人が何ごとを行っても、世界は何も答えてくれないし、ましてや、何かしらの示唆さえ与えられても、それを感じることさえできなさそうだ。自然にアクセスし利用し尽くすための機械やロボットやメディアはどうあればいいのだろう。この問いも、もはやこの世界を人間が支配するときにだけ、機械が人の手足であれば良いという論調が現状だ。
そして、機械の永遠の帰結としての、原発、とは何なのか?
私には死の徴候、シンボルにしか見えない。そう、画家は原発を描けばいいのだ。
しかし、原発を始めとする、人の延長としての道具や機械の議論も、もうそろそろ年貢の納め時のような気が私にはしているのだが。
私が感じる、愛する鳥を両手で包みうる感性“Manuality”、マニュアリティは、人が海や山を包みうる感性と等価に違いない。
したがって、この感性とその自覚こそが、本質的な人間と世界の救済に繋がる可能性を秘めている。
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パターン、Wiki、XP ~時を超えた創造の原則あるいはアンドロイドは電気羊の夢を見るか?
- 2010/12/05 18:52
- Recommendations:現代美術コース
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」はディックの作品の中でも理解しやすい作品である。物語の背景は、最終核戦争の後、人類は、死の灰に汚染された地球に残留する人々と、惑星植民地に移住した人々に分かれて暮らしている情況だ。驟雨の様に死の灰の降る北カリフォルニアを舞台に、地球に密航したアンドロイドを狩る賞金稼ぎとアンドロイドの戦いの物語。主人公はサンフランシスコ警察に所属し、地球に密航したアンドロイドを狩るバウンティン・ハンターのリック・ディッカード。アンドロイドを廃棄処理する賞金稼ぎだ。作者はネクサス6型という2兆の素子脳細胞を持った人間と拮抗する能力を持ったアンドロイドを創造している。人間世界に紛れ込んだ人間と全く同じ姿と能力を持ったアンドロイドを見分けなければならないのだ。何をもってアンドロイドと人間を区別するのか?アンドロイドと人間はどう違うのか?人間が人間たる所以は何なのか?地球に残った人々は、動物を飼うことがステータスとなっている。ウサギよりも羊、羊よりも馬と大型になるほどステータスが上がる。 物語の冒頭で本物の動物を飼えないディッカーは電気羊を飼っているが、後にアンドロイドを3人始末した賞金で山羊を飼うようになる。これはアンドロイド<電気羊<山羊<人間という関係をしめすものでもある。電気羊は人間の愛玩の対象だが、アンドロイドは廃棄処理の対象ってことである。人間は羊の夢を見るが、機械であるアンドロイドは電気羊の夢を見るか?しかしながら、この題名は電気羊以下の価値しかないアンドロイドは、せめて電気羊になりたいというはかない夢を見るか?とも考えられよう。アンドロイドは火星で人間の奴隷としての生活から脱出し、よりよい生活を思い、地球へ逃亡してくる。地球でせめて電気羊になることだ。このアンドロイドと人間を見分ける方法としてディックが提出するのが感情移入度テストというヘンテコなものだ。人間はさまざまな生きた対象に同情、哀れみ、共感などの感情移入を行うが、アンドロイドはこの感情移入が出来ないのだ。例えば牡蠣を食べている時に、主菜としてライス詰めの犬の丸焼きが出される・・・という質問に対して、アンドロイドの反応は人間に比べてまったく違和感を感じない。この反応を計測してアンドロイドと人間を見分けるということだ。この感情移入の欠如こそがアンドロイド宿命でもあり、アンドロイドの抹殺の理由になる。この感情移入とは何か?ライス詰めの犬の丸焼きなど現実に無い、に等しい。これに反応すると云うことは、ライス詰めの鶏料理と丸焼きと愛玩動物の犬からある残酷さを想像する能力だと言ってよい。フィリップ・K・ディックがこの物語で一貫して主張しているテーマは感情移入、共感すなわち想像力の一種だ。この感情移入が仮託された人物こそ特殊者J・R・イジドアであり、キリストを思わせるウィルバー・マーサーだ。物語冒頭 で、ディッカードは『電気羊』を飼っている。いかに精巧であろうが羊はニセ物であり、愛玩は疑似的行為でしかない。疑似的行為がディッカードの中で成り立つことこそが、ディッカードが想像力を持った人間であることの証拠になるのだ。この物に対して成り立つ偏愛は繰り返して語られることになる。 ディッカードはオレゴンの砂漠で絶滅した筈のヒキガエルを見けることになるが、彼の妻イーランによって模造品電気ヒキガエルであることが見破られる!しかし、だ、イーランは夫のために電気ヒキガエルを飼おうと決め餌を注文する。では、人工小昆虫の詰め合わせはいかがでしょう?お願いするわ、とイーランはいった。完全に動いてもらいたいから。うちの主人はそれに夢中なのよ、と。しかし極めつけは、ディッカードとレイチェルの愛の形である。イジドア、ウィルバー・マーサー、バスター・フレンドリーなどメタファーに満ちた人物や、ペンフィールド情調オルガンなどの不思議な機械が登場し、隠喩に満ち満ちた物語である。おもしろい。ディックの専門家はこの国にいるのだろうか?さあ、リピートする。1992年の地球が舞台で最終戦争によって放射能汚染してしまった地球には、限られた人間たちが息を潜めて生きている。動物たちはほぼ絶滅し、地球に残る人々にとっては生きた動物をペットとして飼うことが自らの存在価値にさえなっている。政府は火星への移住政策を押し進め、移住者には人間そっくりのアンドロイドを無償供与していた。アンドロイドたちは、有機体でできており、その寿命が限られるほかは、まったく人間と見分けがつかない。時に、アンドロイドたちは火星を脱出し、地球に逃げ込んでくる。この逃亡したアンドロイドを殺害するのが バウンティ・ハンター(賞金かせぎ)の仕事である。警察に雇用された公務員であるが、歩合制の側面もあり、高額な賞金が保証されている。主人公リック・ デッカードもそのひとり。マンションの屋上で飼っていた羊に死なれ、隣人の手前やむなく電気羊を飼っている男。妻はバスター・フレンドリーの終わりなきワ イドショーと感情をコントロールする情動(ムード)オルガンにおぼれ、現実との接点を失いかけている女。8人のネクサス6型アンドロイドが北カリフォルニアに潜入した。デッカードの上司がふたりを片付けたものの3人目を性格テストで確認しているときに撃た れてしまう。アンドロイドを人間と見分けるには、性格テストで判断するしかない。アンドロイドには共感能力がないのである。だから、人々が他者との一体感 や共感を求めて日々利用する「共感ボックス」と、その中で共感の焦点となるウィルバー・マーサーの苦悩をアンドロイドは知ることができない。しかし、新型アンドロイドの検査・確認法は、もしかしたら人格障害のある人をアンドロイドと誤認するのではないかとメーカーから指摘され、デッカードはメーカーであるローゼン協会を訪ねた。そこには社主の娘で美しきレイチェル・ローゼンがいた。彼女との出会い、そして、6人の人間そっくりなアンドロイドをしとめるという過酷なミッションの中で、デッカードは共感の行く先を見失い、そして生きるすべをあらためて見つけようとする。アンドロイドは電気羊の夢を見るか?にはキップルという概念が登場する。このキップルは火星のタイムスリップではガブル、ガビッシュと呼ばれているもので、生活における無秩序の拡大というような意味である。エントロピーの増大の法則とも近いが、それがたとえばダイレクト・メー ル、ガムの包み紙、昨日の新聞、からっぽのマッチ箱として具象化されるところがミソである。それは自己増殖するのである。じつは、ぼくの回りもキップルだらけで、キップルとの戦いは時々するだけにしている。まっぴらだわ、ダイヤルを回す意欲が湧くように、大脳皮質への刺激をダイヤルするなんて!いま、なにがしたくないといって、それぐらいダイヤルしたくな いものはないわ。だって、もしそうすれば、ダイヤルしたくなるにちがいないし、ダイヤルしたくなる気分というのは、いまのあたしには想像できないほど縁遠 い衝動だからよ。さて、ここで、集合知プロジェクトの仕事をなしとげた知り合いの江渡氏の新刊『パターン、Wiki、XP 時を超えた創造の原則』だ。名著『ゲーデル、エッシャー、バッハ』の如く、シンプルな着眼点で異なる物を結びつけ、普遍の道理に導く。なかなかやるね。建築家のクリストファー・アレグザンダーが1960年代に考え出した思想だが、形を変えて現代のソフトウェア開発手法や、Wikipediaで花開いたWiki型の共創コミュニティに受け継がれてきていることに言及している。アレグザンダーは都市計画によって作られた「人工都市」と、長い時間をかけて生成された「自然都市」を区別した。人工都市はどこかよそよそしく、自然都市は落ち着いている。自然都市にはある種の美しさ、無名の上質とでも呼べるような価値が備わっている。そのアレグザンダーは、住みやすい自然都市に無名の質を生み出しているのは、繰り返し現れる構造=パターンであることを指摘する。たとえば建物の 入り口に何らかの場面転換部を置く、入り口での転換、建物外縁部のひさし付きの道、アーケード、大きな共用部屋の周囲に奥まった小さな落ち着 く部屋アルコーブ。うまくいくパターンを集めると、住みやすい建築や町ができあがることに気がついた。最終的にアレグザンダーは232個のパター ンを集めて解説書「パタン・ランゲージ」を発表する。このパターンは、一つまたはいくつかの機能要求に対応した部品とは異なることになる。機能部品を積み上げて作るのは、一般的なゼネコン流の計画都市のやり方だろう。世の中の要求に、単純に答える部品には、同時にいくつもの住民の要求を満たすパターンの柔軟さなんかない。だから都市はツリーではない。木構造に還元できない。リゾームではない。アレクサンダーは、人工都市がツリー構造になってしまう原因は、人間の認識能力の限界にあるとした。人工都市は少数の建築家が全体を設計する ため、複雑に絡み合った条件を必然的に少数の要素に還元して考える。つまり要素間の関係性は半ば必然的にツリー構造に還元されてしまう。それに対し て長い年月を経てできあがる自然都市は、そのようなツリー構造を持たない。1つの場所が複数の役割を同時に担うセミラティス構造を持っている。アレグザンダーは、利用者と建築家の共通言語としてパタン・ランゲージを作る。少数の建築家による壮大な設計図から作るのではなく、住民とのインタラクションによって常にパターンを組み替えていく、生きた建築の原理を提唱しており、これからの時代に有益だ。アレグザンダーの時を超えた創造の原則の原型は次の原理である、有機的秩序の原理計画や施工は全体を個別的な行為から徐々に生み出していくようなプロセスによって導かれることになる。参加の原理:建設内容や建設方法に関するすべての決定は利用者の手に委ねること。漸進的成長の原理:各予算年度に企画される建設は、小規模なプロジェクトに特に重点を置くこと。パターンの原理:すべての設計と建設は、正式に採択されたパターンと呼ばれる計画原理の集合によって指導されること。診断の原理:コミュニティ全体の健康状態は、コミュニティの変遷のどの時点でも、どのスペースが生かされ、どのスペースが生かされていないか、を詳しく説明する定期的な診断に基づいて保護されること。調整の原理:最後に、全体における有機的秩序の緩やかな生成は、利用者の推進する個々のプロジェクトの流れに制御を施す財政的処置によって確実なものとされること。そして、ここからが重要なのだ。現代のソフトウェアの開発プロセスXP(エクストリームプログラミング)とパタン・ランゲージの共通点が指摘されることになる。ネットワーワークにおける、さまざまな、ハードの設計、建築でもソフトの開発でも普遍的な秘訣がみつかっているのだ。XPとは、瞬時のフィードバック、シンプルの採用、インクリメンタルな変更、変化を取り入れる、質の高い作業を重視する行動指針なのだ。上質なパターン集だ。XPと似た手法のアジャイルマニフェストはプロセスやツールよりも、人と人との交流を包括的なドキュメントよりも、動作するソフトウェアを契約上の交渉よりも、顧客との協議を・計画に従うことよりも、変化に適応することをというような原理を重視して進めるソフトウェアの先端的な開発技法である。XPは新たな社会構造を作るという野心を秘めているのだろう。Wikipediaのベースになった知のコラボレーションシステムWikiの誕生から現在に至るまでの歴史解説になっている。ウォード・カニンガムに よるWikiの設計思想もアレグザンダーの思想の直系子孫であることがわかる。インターネットの世界に開かれた創造の原理が拓く未来を江渡氏は展望していくのだ。おもしろい。「Wikiは、誰もが自由に、ほかの人の記述も含めてどこでも書き換えられます。それが非常にラジカルで、すごいことなのですが、その代わりにその ような環境を維持するためには非常に大きな努力が求められます。議論を通じて合意や共通理解に到達することに価値を認め、おのおのが実践していくという文 化を作り上げることが、Wikiにとっては非常に重要なのです。」実際の建築家としてのアレグザンダーは、その優れた創造原理を十分に実践することはできなかった。現実の建築の仕事には多くの制約があったからだ。 しかし、インターネット上の人々の住処=仮想コミュニティのソフト設計は、まさに創造原理が究極の形で発現しうる場なのだ。そこでは、利用者と 建築家が常時パタンランゲージのやりとりを行いながら次代の形態を模索していくことが可能だ。1992年の地球が舞台で最終戦争によって放射能汚染してしまった地球には、限られた人間たちが息を潜めて生きている。動物たちはほぼ絶滅し、地球に残る 人々にとっては生きた動物をペットとして飼うことが自らの存在価値にさえなっている。政府は火星への移住政策を押し進め、移住者には人間そっくりのアンド ロイドを無償供与していた。アンドロイドたちは、有機体でできており、その寿命が限られるほかは、まったく人間と見分けがつかない。時に、アンドロイドた ちは火星を脱出し、地球に逃げ込んでくる。この逃亡したアンドロイドを殺害するのが バウンティ・ハンター(賞金かせぎ)の仕事である。警察に雇用された公務員であるが、歩合制の側面もあり、高額な賞金が保証されている。主人公リック・ デッカードもそのひとり。マンションの屋上で飼っていた羊に死なれ、隣人の手前やむなく電気羊を飼っている男。妻はバスター・フレンドリーの終わりなきワ イドショーと感情をコントロールする情動(ムード)オルガンにおぼれ、現実との接点を失いかけている女。8人のネクサス6型アンドロイドが北カリフォルニ アに潜入した。デッカードの上司がふたりを片付けたものの3人目を性格テストで確認しているときに撃た れてしまう。アンドロイドを人間と見分けるには、性格テストで判断するしかない。アンドロイドには共感能力がないのである。だから、人々が他者との一体感 や共感を求めて日々利用する「共感ボックス」と、その中で共感の焦点となるウィルバー・マーサーの苦悩をアンドロイドは知ることができない。しかし、新型 アンドロイドの検査・確認法は、もしかしたら人格障害のある人をアンドロイドと誤認するのではないかとメーカーから指摘され、デッカードはメーカーである ローゼン協会を訪ねた。そこには社主の娘で美しきレイチェル・ローゼンがいた。彼女との出会い、そして、6人の人間そっくりなアンドロイドをしとめるとい う過酷なミッションの中で、デッカードは共感の行く先を見失い、そして生きるすべをあらためて見つけようとする。アンドロイドは電気羊の夢を見るか?には キップルという概念が登場する。このキップルは火星のタイムスリップではガブル、ガビッシュと呼ばれているもので、生活における無秩序の拡大というような 意味である。エントロピーの増大の法則とも近いが、それがたとえばダイレクト・メー ル、ガムの包み紙、昨日の新聞、からっぽのマッチ箱として具象化されるところがミソである。それは自己増殖するのである。じつは、ぼくの回りもキップルだ らけで、キップルとの戦いは時々するだけにしている。まっぴらだわ、ダイヤルを回す意欲が湧くように、大脳皮質への刺激をダイヤルするなんて!いま、なに がしたくないといって、それぐらいダイヤルしたくな いものはないわ。だって、もしそうすれば、ダイヤルしたくなるにちがいないし、ダイヤルしたくなる気分というのは、いまのあたしには想像できないほど縁遠 い衝動だからよ。
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日本盲人史、売笑三千年史、愛欲三千年史
- 2010/09/30 00:08
- Recommendations:現代美術コース
アマゾンの参照を置くのは意味ないように思う。我が校の図書館をあたってほしい。ぼくが私淑する民俗学者、中山太郎の著作である。我が校の何人かに、この人の本を貸しているが、どのような本であるかはきっと知っていないだろう。でも、この本を預けて、持っておいてくれるだけでも意義を感じる。中山太郎は明治九年栃木県に生まれ、東京専門学校卒業後、報知新聞社や博文館に勤めながら、柳田国男を通じて民俗学の道へと進む。古文献を渉猟して三万枚のカードを作り、それをもとに民俗の歴史的変容を考察する著作『日本巫女史』『日本婚姻史』『日本盲人史』を刊行する。記録文献を多用する方法論のために、柳田民俗学の本流から外れてしまったとされ、その苛烈な言動で、柳田から痛罵されつつ、戦後二十二年に亡くなっている。柳田国男研究会編の『柳田国男伝』(三一書房)を読んでみても、もはや、どこにも、中山太郎の名前は出てこない。しかも見いだされた赤松啓介とは違い、中山太郎の再評価の声もほとんど聞かれず、著作の文庫化などありようもない。しかし、幸いなことに、主として昭和五十年代に前記の三冊に加えて、『増補日本若者史』 『売笑三千年史』 『愛欲三千年史(増補版)』 などが「中山太郎歴史民俗学シリーズ」として復刻されている。発行者の飯島一は中山の甥で、参考までに、岩田準一の著作を嫡子の貞雄が私家版で刊行したことを彷彿させるだろう。またその他にも同時代に大和書房から「日本民俗学」シリーズも復刻されている。中山太郎の『日本売笑史』(寸美会、明治三十九年)と『売笑三千年史』(春陽堂、昭和二年)の二冊が岩田準一の『男色文献書志』には挙げられており、前書に岩田は次のような注を付している。「総説結論併せて十一章に分ち、先史時代より明治時代に至る変遷を叙し、添うるに衆道の変遷史をもってす。組織立てる各時代の文献考察は日本風俗史に後れ出でてこれを最もとすべし。」実は先に挙げた『売笑三千年史』 は『日本売笑史』をも含んだ復刻となっている。これは、ときどき神保町で出逢う。中山太郎は「自序に代へて」で、「本書を恩師岡野知十翁に捧ぐ」と掲げている。岡野は万延元年生まれの俳人であり、明治三十四年に俳誌『半面』を創刊し、新々派俳風を唱え、俳書の収集にも勤しみ、それらは関東大震災後に東大図書館にも寄贈され、知十文庫として珍重されている。中山太郎は俳諧の世界から出発して「土俗の研究」を志した。そして、柳田国男へと接近し、「売笑問題」も日本土俗学の建設の一環として位置づけ、研究を続けてきたことを明記している。柳田の他に折口信夫、伊波普猷、瀧川政次郎、ニコライ・ネフスキーの教示を仰ぎ、ネフスキーとは一連のフィールドワークを行っている。『売笑三千年史』 は先の岩田準一の注にあるように、先史時代から明治時代までの売笑史にして、七百ページ弱に及ぶ大きな書物であるが、その視点と研究目的は次のような言葉に集約されている。「売笑史は社会暗黒史である。人間変遷史である。更に露骨にいへば堕落史であり、腐敗史である。余り大きな声では言ひたくもない国辱史である。しかし此の暗黒史が齎らすところの社会的事象や、この国辱史が語るところの歴史的事実は、常に偉大なる権威を以て時代の好尚を支配し、併せて風俗の推移 を示唆している。」この点からいうと売笑史は社会学的にもかつ土俗学的にも重要な価値が存しているのはいうまでもない。人間の根源と本質がここには表象されることになる。ちなみに。売笑とは売春のことである。
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- インドから海外に出る人は1400万人。そのうち日本にはわすわか8万人。その7割はビジネス目的で、そのうち9割りが男性。

- あの作品の帯を頼まれるとは、それだけで感激。 RT @manaview: 東さん(@hazuma)さんが連載してる小説で『日出処の天子』について前にリプライもらったけど帯に文章を寄せられてる。 http://t.co/OzFDvDGh

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- 上海MOCAの展示から戻る。僕も同じ空気を感じてる・・・<中国>日本人の自転車盗難 ネットで5万人が“大捜索”(毎日新聞) - Y!ニュース http://t.co/zeJm40eh

- 東宝撮影所のスタジオの壁には「七人の侍」の写真を拡大した巨大な絵が描かれている。もう上手いってもんじゃない。腰抜かすほどタダタダ上手いんだ。世の中には凄い画家がいるもんだ。 http://t.co/HJ42KCYF

- Jury recommends 25-year sentence for ex-lacrosse player in the death of his ex-girlfriend. http://t.co/Kv1wCkXE
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京都造形芸術大学 芸術学部 美術工芸学科































